「友を喪ふ」迄 ――書簡よりみる梶井と三好の友情
1、 はじめに
三好達治と梶井基次郎は大正15年より、三好の同人『青空』*1の参加を契機として親交を深めた。その友情については、『青空』同人の一人で共通の友人として両者を引き合わせた淀野隆三による回想録がある。この回想録よりふたりの文学への情熱を発端としたいくつかのエピソードを知ることが出来るが、それはお互いの文学へのリスペクトがあっての喧嘩やすれ違いであったことが述べられている。
……こんな事件はあったにしろ、梶井と三好とは相互に尊敬し合っていた。梶井は梶井で三好の詩篇を吹聽し、三好は三好で、例えば梶井の「冬の日」を一面識もない室生犀星のところへ手紙を添えて送りとどけたことさえあった。(中略)梶井と三好の友情は昭和七年梶井が死ぬまで續いて渝らなかった。いや、梶井の死後はなおさらアミチエ・ポスチュームとして、より純粹に續いている筈だ。(淀野「梶井と三好のこと」)
三好が、梶井の死後「友を喪ふ/四章」をはじめとして、梶井が逗留していた伊豆湯ヶ島の風景と共にその喪われし友情を「ふるき日の思出」として後年まで詩情の源泉としたことは「自作について」で自ら語っている。
われはいまふとふるき日の思出のために
なつかしき淚あふれていでんとするににたる
(「遠き山見ゆ」抜粋)
伊豆狩野郡湯ヶ島村には、往年梶井基次郎君が病を養って逗留してゐた。私は度々彼を訪問して、附近の景物に接し、そこいらの山野をさまよひ歩いた。ある夏、萩原朔太郎先生に初めてお目にかかったのも、この山村であった。(中略)後年出かけることは稀になつたが、「ふるき日の思出」は、いつまでも私の心に巣くつてゐて忘れ難いやうである。(「自作について」)
だけでなく、回想録や諸作品への批評といった梶井に関する文章も昭和8年発表の「『檸檬』を讀み返し乍ら」から昭和39年の「梶井基次郞君の三十三回忌を迎へて」と実に最晩年までその追憶は続いている。一方梶井の三好作品に対する評価は、小樽より上京し『青空』同人らと親交を結んだ伊藤整が『若い詩人の肖像』で回想した、梶井が三好の短詩「雪」(「太郞を眠らせ、太郞の屋根に雪ふりつむ。/次郞を眠らせ、次郞の屋根に雪ふりつむ。」)を口ずさんでいたという話や、湯ヶ島に来訪した萩原朔太郎に三好の詩を見せた話(「文學的青春傳」)などからうかがい知れるばかりである。それより詳細な評価については梶井が書き残した評論・書簡を見ていかねばならない。そこで今回は梶井からみた三好の人物像、作品に対する評価について書簡を中心に考えてみたい。
2、文学活動に対して
三好と梶井は、詩人と小説家という資質の違い以上に、その出発点において文学に対する意識が大きく違っていたといえる。
梶井は第三高等学校入学時より文学に興味を持ち、中谷孝雄や外村繁など文学を志す友人らと劇研究会を結成し校友会誌(嶽水會雜誌)に投稿するなど積極的に活動し、高校卒業前から東京で同人雑誌を出す計画を進めていた。(「『靑空』のことなど」)やや遅れて大正14年1月に『青空』が発行されて以降も同人仲間を増やし、また同年6月の第4号以降は創刊号ではあえて控えていた先輩作家や新聞社への寄贈をはじめるなど、活動は文壇をより意識したものになってゆく。
一方三好は陸軍士官学校退学後、第三高等学校において後に『帆・ランプ・鷗』の海洋詩人として詩壇に登場する丸山薫と出会い、詩に関心を持ったことを「詩壇十年記」で回想している。ただ、すぐに詩作にとりかかることは出来ず、自らの「詩風」の確立に苦悩し、萩原朔太郎、室生犀星をはじめとして、北原白秋、島崎藤村まで明治・大正期の日本近代詩を、少なくとも「當時世評の高かつた詩人達は、殆ど洩れなく」読み、そのスタイルや思想についての検討に時間を費やしたとある。高校時代には卒業間近に「玻璃盤の胎児(初出:玻璃盤の嬰児)」を一作発表したのみで、東京帝国大学へ入学後、淀野に『青空』へ勧誘をされた際にも参加をためらっている。ようやくその約1年後、大正15年6月『青空』にそれまで書き溜めた作品を発表し、文学活動を本格的にはじめることとなった。しかし、詩作をはじめた後もその後の展望については不安が拭えず、「一途に文藝志望に身を委ねる」ことに躊躇するなど、その意識の差は大きかったと思われる。
……後にそれでもその頃の手習草を同人雜誌にのせたのを、梶井基次郎が萩原さんのお眼にかけた彼の報告に、僕や室生の影響があるねと洩らされたとか聞かされた。私は同人雜誌に作品をのせるやうになつてからも、まだ一途に文藝志望に身を委ねるつもりにはなかなかなり切れなかつた 。(「放下箸」)
3、『青空』での作品
しかしながら同人の中谷孝雄によれば、三好の詩はさっそく同人内で好評を以って迎えられ、梶井もこれをほめたらしい。(『梶井基次郎』)またその内の「乳母車」は百田宗治にも『日本詩人』(大正15年7月)のコラム「靑椅子」で紹介され、早くも詩壇にその存在を認識される。7月号「甃のうへ」、8月号「少年」など、殉情的感傷によって構成された『青空』初期の作品は本人も自認する様に朔太郎や犀星の「感情」詩派からの影響が強く表れている。
百田主宰の『椎の木』に参加する一方、早くも従来の「自由詩」の形式に疑問を抱き「純粹に、詩の詩たる魅力」(「詩壇十年記」)を発見するために散文詩という形式にも挑戦しはじめる。『青空』に12月号「黑い旗」、翌年1月号「岬の話」「蝙蝠と少年」と続けて散文による詩作品を発表した。それは前時代の「自由詩」を超克し、自立が出来るほどの「詩風」が自らにあるかどうかの挑戦であった。次第に「村」や「鹿」、「峠」のような現実の風景に抒情性を発見する写生的な作品が出てくる。浅見淵はこれらの作品について
最初の抒情的傾向がしだいに詩の裏側に隠され、表面目立って厳しい抒事的緻密さが加えてきている。(「三好達治とその周辺」)
と梶井の緻密な観察力に基づく文章からの影響を指摘している。
この変化は梶井も注目するところであり、
三好が今度靑空にのせると云つてゐた國境の町の詩は實にいゝよ、僕はおそらくこれまでのあの人のものゝなかでも最もいゝものゝ一つだと思つてゐるが實にいゝ(昭和2年4月10日付淀野宛書簡抜粋)
と5月号に掲載される散文詩「街(初出:街――梶井基次郞に物語るために)」を称賛した。その半月ほど前の3月21日付北川冬彦宛の書簡で「三好のは辻馬車の人には岬の話がよかつたらしい、僕はあのときのは蝙蝠 今度の谺など好きなのだが」とある、この時期の散文詩は心象風景の幻想的描写で構成され、「乳母車」を代表として「母なるもの」への慕情、幼年期の郷愁が主題となっている。「街」はそこから一線を画し、行分けを完全に廃し写実的で緻密な情景描写に分量を費やすことで、山間の盆地に古来より息づく人々の暮らしの慎ましやかさからノスタルジックな感興を惹き起こさせるという手法を成功させた。
山間の盆地が、その傷ましい、荒蕪な杯盤の上に、祈念の如くに空に擎げてゐる一つの小さな街。夜ごとに音もなく崩れてゆく胸壁によつて、正方形に劃られてゐる一つの小さな街。その四方に楊の並木が、枝深く、すぎ去つた幾世紀の影を與へてゐる。今も明方には、颯颯と野分のやうな羽音を落して、その上を水色の鶴が渡つて行く。晝はこの街の樓門から、鳴き叫ぶ豚の列が走りいで、轉がり、しきりにその瘦せた黑い姿を、灌木と雜草の平野の中に消してしまふ。もしもその時、異樣な哀音の軌るのを遠くに聞くならば、時をへて並木の影に、小さな二輪車が丘のやうな赭牛の項に牽かれて、夏ならば瓜を積み、秋ならば薪を載せ、徐ろに、樓門の方へと步み去るのを見るだらう。(中略)
やがて夜が來たとき、滿潮に呑まれる珊瑚礁のやうに、闇黑と沈默の壓力の中に、どんなに暗く、この街は溺れさり沈みさるのであらうか。そしてその中で、どんな形の器にどのやうな燈火がともされるのであらうか。もしくは燈火の用とてもないのであらうか。私はそれを知らない。今も私は、時として追憶の峠に立つて、遠くにこの街を眺めるのであるが、私の記憶は、いつも、太陽の沈む方へといそいで歸つてしまふのである。 (「街」抜粋)
4、『青空』解散以降
すでに『三半規管消失』で横光利一から称賛を受け詩壇で活躍していたモダニズム詩人北川冬彦が大正15年12月『青空』に参加し面識を持ったことをきっかけに、三好も更に文学活動に没入し詩壇の「新詩運動」にも関わりはじめる。昭和2年4月『青空』の解散後は北川を通じ同人『亞』*2に2回作品を発表した。安西冬衛の
てふてふが一匹韃靼海峡を渡つて行つた。(「春」)
を代表とする短詩運動にも刺激を受け、作風はさらに広がりを見せることとなった。うち『亞』35号に掲載された「囁き(初出:しゆうしようとまん)」はフランス詩人のジュール・ルナール『博物誌』に依った作品であり、岸田國士や堀口大学などによる翻訳詩も積極的に作風に取り入れていたことがわかる。
三好個人の生活としては卒業論文の制作に特に苦労し、梶井にも昭和2年12月14日付北川冬彦宛の書簡で同月『近代風景』に掲載された「暗い城のやうな家」を挙げ、最近「神経衰弱にかかつて大ぶ弱つて」いる、その苦しみが反映されていると気にかけてられている。無事昭和3年3月卒業するも、書肆アルス社への就職に失敗し、昨年夏伊豆湯ヶ島で知遇を得た萩原朔太郎へ師事しながらエミール・ゾラ『ナナ』の下訳やボードレール『巴里の憂鬱』の翻訳業で糊口を凌ぐ厳しい状況が続く。詩壇では『亞』同人と共に同年9月から春山行夫を中心とする『詩と詩論』*3に参加する。シュールレアリスムやモダニズムといった前衛色の強い文学運動の中心となったこの同人の中で三好もまた「Enfance fine」など前衛的手法を通じて自らの抒情詩を模索する作品を積極的に発表していく。よって、梶井が同年12月の「『靑空』のことなど」で三好を北川冬彦と並んで「名を成した詩人」として名を挙げたのも、詩壇での積極的な活動によるものだと考えられる。昭和3年から4年までは伊藤整による『信天翁』*4や第二次『椎の木』*5、また『詩神』への寄稿など詩壇での活動に加え、前述の翻訳業など精力的に仕事をした。1年で三千枚の原稿を書いたと梶井に伝えていたことが昭和4年12月31日付淀野宛書簡などにみえる。
昭和5年には『詩と詩論』から北川らと共に脱退、『詩・現実』*6に参加、作風もモダニズムの影響により多彩になっていく。しかし人の心理構造の解析のための詩語を追求する「新詩風」に於いて、抒情詩の「韻律も音樂も」「可視物そのもののやうに、凝固」してしまう点に三好は徐々に疑問を持ちはじめていたらしい。(「ある魂の經路」)ファーブル『昆虫記』の翻訳に注力しつつも、帝大仏文科の同窓小林秀雄や、堀辰雄、井伏鱒二ら小説家・批評家との文芸雑誌『作品』*7の参加など徐々に文壇との交流を重視する傾向がみられるようになる。
5、詩壇から文壇へ
残存する梶井の三好宛の封書の1通目はこの昭和5年の9月9日付で送られたものである。話題は友人らの近況から三好の詩作に移る。
僕は君がその元氣で 大阪で話してゐた鷹が颱風と鬪ふ詩の如き長詩を物してくれることを祕かに祈つてゐる
僕は僕の感じで 君が今や詩人として押しも押されもせぬ高所に超凡の姿を現はすべきときと思つてゐる。君がほかへ心を向けるやうなことがあれば それは君の墮落だ、どうかその試みをして吳れ給へ。丁度颱風の中へ飛込む鷹の如く。(昭和5年9月9日付三好宛書簡抜粋)
また9月27日付の2通目にもこの話題は続き
僕が前の手紙で 君が今小説を書かうととするのは墮落だと云つたのは言葉が少し唯心的に過ぎて あとで氣になつた。(中略)あれは「誤り」とでも云ひ直すべきかと思つてゐる。然し僕が君の今 小説を書かざらんことを そして長詩を書くべきことを 切に思つてゐる氣持には少しの變りもない。仕事で大切な詩作の時間が奪はれることは非常に辛いことと思ふ。(昭和5年9月27日付三好宛書簡抜粋)
しかし一層詩作に注力するよう励ましの言葉で締めている。
もちろん、梶井がかなり熱心に同人、文学仲間の其々の活動を気に掛けていた様子は昭和5年3月19日付中谷宛「僕は今君が世間へ出て吳れることを何より望んでゐる」や5月16日付北川宛「この上は その雑誌(筆者注『詩・現実』)に勢力を集注し 詩壇の大黒柱にしてほしい」などからみてとれ、上記の書簡に限らず自らの知己が世間で認められていくことに対しては常にそれを応援していた。
まずこの書簡について「……小説を書かざらんことを」について注目したい。三好が小説の執筆を試みていたことは昭和4年末に発表された散文詩「日記」に「僕は幾度も小説を書き損ねて」とある。この時期に翻訳の仕事だけでは収入が覚束ない状況があったことを「貧生涯」にて三好は回想しているが、それが「仕事で大切な詩作の時間が奪われること」の指し示すところであろう。しかし詩人に対しその専門に注力してほしいというだけの意図でなかったことは、他方北川に対しては同年3月22日付書簡「君が小説を書くのは大贊成だ」と、その詩で培った技量が小説で発揮されることを期待するコメントを送っていることから推察できる。しかも昭和6年に再び三好が小説に挑戦する際には「三好はその才能で特異な小説を書くのではないかと思ふ。」(9月21日付淀野宛)と一転して肯定的な反応を示している。
君中谷三好のよさをあらゆる機會をつかんで人々に知らせたく思つてゐる。吾々はもつともつと社會に擴まらなければならない。(昭和4年12月3日付北川宛書簡抜粋)
とあるように、梶井の関心は『青空』同人の才能が世間に認められることにあった。昭和5年9月時点においてこのような助言をしたのも、まずは三好の詩に対する世間の評価を高めるべきという意図だったと捉えられる。
その点に関して足がかりとしてみたいのが、鷹を主題とする「長詩」への期待である。しかし該当する作品は、全集(『梶井基次郎全集』)注にあるように未発表で現存もしていない。ただ梶井がこれまで書簡で言及し、評価したものが「谺」や「蝙蝠と少年」、「街」などの散文詩であることをふまえると、これも散文形式と考えるのが妥当であろう。特に語られる内容からは同年6月『詩・現実』発表の「獅子」の一節のような激しさを感じ取れる。
……彼は猛然と項をあげた。鬣の周圍に激しく渦卷く焔を感じた。そして彼は突嗟のやみがたい欝憤から、好奇の眼を以て彼の仕草を眺めてゐた群衆にまで、自らをたたきつけ、咆哮して戰を挑んだ。苦しいまでに漲る氣魄にわななきながら、堅く皮膚を引き緊め、腱を張り、尾を槍のやうにして、四肢に千鈞の彈力を歪ませ、咆哮して銳く身構へた。柵外の群衆は、或は畏怖のしなをつくつて僞善者の額に袂をあげ、或は急いでそれに對抗して樂天家の下つ腹をつき出した。――そして見よ、ああしかしながら、ここに吼ゆるところの獅子は、一箇の實體する思想、呼吸する鞴であつたか? 眞に事實が、如何に一層悲痛ではなかつたか? この時、獅子の腦漿よりしてさへ、かの一羽の蝶はまた、再び夙やく天の一方に飛翔し去る時!(「獅子」抜粋)
梶井は前述の12月3日付書簡で『文學』第3号の「十一月の視野に於て」について、
彼もつとめて難しく物を云はうとする癖で非常に多くの空費をしてゐる。
と厳しく詩語の非「哲学」性を指摘した上で、
しかし彼のますます秀でて來た形式の水晶塔のやうな硬度、光、は年來心の研磨を感じさせる(昭和4年12月3日付北川宛書簡抜粋)
と批評している。詩語の厳格さ、表現の緻密さにおいて、三好は世間に評価をされるに足る才能であることを強く確信していることが窺われる批評である。これこそが梶井が三好に見た「超凡の姿」ではないだろうか。その後12月末に処女詩集『測量船』が刊行されると堀口大學をはじめ詩壇、文壇から高く評価され、その仕事はまさに詩人としての地位を確立するものになった。
ただ以前より燻ぶっていた前衛的手法に対する不満はより深刻となり、昭和6年には詩作が停滞する。また翌年の昭和7年3月には喀血と心臓病のために入院し3か月ほど療養生活を送ることとなった。そして、これまでの手法を一旦放棄し、より単純で明瞭な方向へ転換を遂げるのが昭和7年5月に発表された「友を喪ふ/四章」に端を発する定型の四行詩であった。
僕は現世に容れられない天才といふもの、あまり眞面目なために俗人の間に悲劇的な最後をとげる者――かう云つたものに非常に惹きつけられる。これは僕が君を知るやうになつてからの 主として君を通しての人間勉强であることを云つておきたい。(昭和5年9月27日付三好宛書簡抜粋)
梶井の眼には自分の仕事である近代詩そのものを常に懐疑しながらも、しかし決して退かず成果を残していく三好がそのように映ったのかもしれない。
初出:掬屋一編集「文豪情報同人誌 BUN-GO!」(令和元年10月20日発行)
参考文献
1、はじめに
・引用文献
三好達治「雪」『三好達治全集』第1巻(筑摩書房、昭和39年10月)
「遠き山見ゆ」『三好達治全集』第2巻(筑摩書房、昭和40年2月)
「自作について」『三好達治全集』第6巻(筑摩書房、昭和40年10月)
淀野隆三「梶井と三好のこと」『現代日本文学全集』第43巻・月報12号(筑摩書房、昭和29年5月)
・参考文献
伊藤整『若い詩人の肖像』(新潮社、昭和31年8月)
三好達治「友を喪ふ/四章」『三好達治全集』第1巻(筑摩書房、昭和39年10月)
「『檸檬』を讀み返し乍ら」「梶井基次郞君の三十三回忌を迎へて」『三好達治全集』第6巻(筑摩書房、昭和40年10月)
「文學的青春傳」『三好達治全集』第9巻(筑摩書房、昭和40年4月)
昭和7年2月18日付中谷孝雄宛書簡(封書)〔430〕
以上梶井基次郎『梶井基次郎全集』第3巻(筑摩書房、平成11年10月)
2、文学活動に対して
・引用文献
「詩壇十年記」「放下箸」『三好達治全集』第9巻(筑摩書房、昭和40年4月)
・参考文献
丸山薫「三好達治のプロフィル」「創元」4月号(昭和28年4月)
安田保雄「『青空』時代の三好達治―『測量船』研究序説―」「鶴見女子大学紀要」第1号(昭和38年11月)
「玻璃盤の胎児」『三好達治全集』第1巻(筑摩書房、昭和39年10月)
三好達治「私の詩作について」『三好達治全集』第6巻(筑摩書房、昭和40年10月)
小川和祐『三好達治研究』(国文社、昭和45年10月)
鈴木貞美編「『青空』の青春――淀野隆三「日記」抄」『梶井基次郎全集』別巻(筑摩書房、平成12年9月)(初出は『昭和文学研究』、昭和61年1月)
石原八束『駱駝の瘤にまたがって―三好達治伝―』(新潮社、昭和62年12月)
「『靑空』のことなど」『梶井基次郎全集』第1巻(筑摩書房、平成11年11月)
3、『青空』での活動
・引用文献
浅見淵「三好達治とその周辺」『近代文学鑑賞講座』(角川書店、昭和34年2月)
「乳母車」『三好達治全集』第1巻(筑摩書房、昭和39年10月)
昭和2年4月10日付淀野隆三宛書簡(封書)〔232〕
昭和2年3月21日付北川冬彦宛書簡(封書)〔229〕
・参考文献
百田宗治「靑椅子」「日本詩人」7月号(大正15年7月)
「甃のうへ」「少年」「黑い旗」「岬の話」「蝙蝠と少年―丸山清に―」「街」「村」(鹿は角に麻繩をしばられて、……)「鹿」「峠」『三好達治全集』第1巻(筑摩書房、昭和39年10月)
小田切進編『現代日本文芸総覧』中巻(明治文献、昭和43年1月)
安西均「三好達治」『現代詩鑑賞講座』第10巻・現代の抒情(角川書店、昭和44年1月)
溝口章『三好達治論 詩の言語とは何か』(土曜美術社、平成23年12月)
4、『青空』解散以降
・引用文献
安西冬衛「春」『軍艦茉莉』(厚生閣書店、昭和3年4月)
「ある魂の經路」『三好達治全集』第4巻(筑摩書房、昭和40年8月)
昭和2年12月14日付北川冬彦宛書簡(封書)〔263〕
・参考文献
北川冬彦『三半規管消失』(至上藝術社、大正14年1月)
「囁き」「暗い城のやうな家」「Enfance fine」『三好達治全集』第1巻(筑摩書房、昭和39年10月)
「現代詩は難しいか」『三好達治全集』第4巻(筑摩書房、昭和40年8月)
吉田精一『日本近代詩鑑賞 昭和編』(創拓社、平成2年6月)
昭和4年12月31日付淀野隆三宛書簡(封書)〔312〕
鶴岡善久編『北川冬彦詩集』(沖積社、平成12年9月)
5、詩壇から文壇へ
・引用文献
昭和4年12月3日付北川冬彦宛書簡(封書)〔306〕
昭和5年3月19日付中谷孝雄宛書簡(封書)〔220〕
昭和5年3月22日付北川冬彦宛書簡(封書)〔322〕
昭和5年5月16日付北川冬彦宛書簡(封書)〔340〕
昭和5年9月9日付三好達治宛書簡(封書)〔352〕
昭和5年9月27日付三好達治宛書簡(封書)〔354〕
昭和6年9月21日付淀野隆三宛書簡(封書)〔401〕
「日記」「獅子」『三好達治全集』第1巻(筑摩書房、昭和39年10月)
・参考文献
堀口大學「三好達治君の『測量船』」「作品」第33号(昭和8年1月)
「十一月の視野に於て」(書簡では「雪」とあるが、同時に『文學』第3号に掲載された梶井基次郎「詩集「戦争」評」及び堀辰雄訳「ジヤン・コクトオ氏の講演」について言及しているため、梶井がこの時言及している『文學』も同号で間違いないと考えられる。また同号掲載の詩4編のうちこれが初出となるものは当該作品のみ。)『三好達治全集』第1巻(筑摩書房、昭和39年10月)
「貧生涯」『三好達治全集』第9巻(筑摩書房、昭和40年4月)
大岡信、鮎川信夫、中村真一郎、菅野昭正「この世のパッサーン」「現代詩手帖」6月号(昭和39年6月)
編集及び校正に際しご助言ご助力を頂きました、アンソロジー「文豪情報同人誌 BUN-GO!」の主催掬屋一様に改めて感謝を述べさせていただきます。